感化と変化の記録

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3.俺14

体験と生活と芸術の考察ブログ

「いつ死んでもいい」という感覚の影響

その悲しみはどこから来るのか

「プシュー、ガチャン……。ビィイー……プシュー」

とある工場では、機械の作動音とその副産物の音だけが響いていた。視界いっぱいに広がる機械、機械によって作られた成果物、そして人。機械を動かす人。テープを素早く動かす手つきは機械のようで、むしろ人間の要素を見つけるのが難しい。表情も例外ではない。

甘かった。認識が甘かった。

「むしろ単純作業を永遠にこなす方が性格的に向いているよ」

この言い切った言葉が正確ではなかったことを悟った。この光景を目の当たりにしてから。

小説みたいな語り口はこれくらいにしておいて、歯車の如き仕事を目にしたときに悲しい様な気持ちになった。「悲しい」と明確に感じたわけではなく、「あぁ……」と反射的になった。

見学を終えて机に戻った時に、「いや、それは違うぞ」と思った。抜けている。「それ以外の時間は何をしているのか」が。仕事をしていない時間、例えば家での自由時間に何をしているのか。そこは自分が一番大切にしているところだ。それを抜きにして「あぁ……」となるのは違うぞ。

さて、その「成長の無さ」や「進歩の無さ」に対する、悲しみの感情はどこからくるのか。

それは、「いつ死んでもいい」という思いからだ。ある時から、そう理性的に思えるようになった。「昨日と比べて、今日という日が何も変わっていないのなら、生も死も同じではないか」という意味。

だから、永続的な単純作業に咄嗟に悲しみを感じた。でも、さっき述べたように、それは違う。悲しくなるのはまだ早い。「その人の時間」で決まる。

(2016年11月25日)

身辺整理

とりあえずもう死ぬことは考えていて、日記とかは消す方向に向かってる。
(2015年6月27日 21:58)

「いつ死んでもいい」という感覚が及ぼした影響として、「思い入れのある物の処分」がある。それまでは「残すもの」だったが、今は「使うもの」になった。

「これは、将来(主にブログで)使うだろうか」

答えがNoの場合、捨てる。アルバムの写真、パソコン内の写真データ、Twitterのつぶやき、日記、Vlog。活かせない物は捨てた。簡単に言うと終活なんだろう。終活をやっている。

「今、懐中電灯片手に卒業アルバム燃やしにいってきた」って言ったら、私のことをヤバい奴だと思うかい? 何ゴミか不明だし、捨てた写真を見られると嫌だから、自然且つ一番簡単な処理方法を取ったまでだよ。「アルバムは燃えにくい」ってことが分かったし、家の水道管が破裂してた事にも気付けたよ。
(2016年6月9日 0:40)

生きた証

自分が生きた証を、自分が死んだ後も残したい。「こういう考えを持って、こういう行動をした人間がいた」ということを残したい。残せることが出来れば、納得して死ねる。そのためのツールはインターネット。残したいものは、ポートフォリオとブログだ。ポートフォリオには自分の写真、詩、音楽など(行動)があり、ブログには自分の考えた道筋(思考)がある。

死ぬために生きてる?

大学3年位から、人生を楽しむことをやめている。人間性や感性を高めることを第一としているので、普段、全然楽しくないことを半ば義務的に行っている。そこに人生の空時間を費やしている。

「バカじゃねーの」と思うだろうか。その通りだ。自分でもそう思う。しかし、そうせずにはいられない。無駄だと思うことはしたくない。そこで不思議になってくるのは、「死ぬために生きているのではないか」という感覚。自分を高めて、それを死後も残す。その、死を意識した生活は死のためにあるような気がしてくる。

(2016年1月6日)