感化と変化の記録

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3.俺14

体験と生活と芸術の考察ブログ

歴史は小説として読もうと思う(東京国立博物館:始皇帝と大兵馬俑展)

芸術・デザイン

2016年1月14日。この日は蔵元(日本酒)のインターン説明会が東京であった。それだけのために行くのはもったいないから、2つの展覧会に行ってきた。

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そのうちの一つ。東京国立博物館の特別展「始皇帝と大兵馬俑」。因みに、この展覧会にはそれほど興味はない。どれくらいの興味かといえば、「秦の始皇帝って語感いいな」くらいだ。芸術の時間に先生がオススメしていたから、行ったわけです。

解説文の方が重要度が高い?

入ってすぐの人混みに驚く。平日(木曜)なのに、どうしてこんなに人がいるの。

文字が彫られた石や、装飾された鐘がお出迎え。絵画と違って、長時間凝視するわけではない。その代わり、説明文を読む。作品に埋め込まれた情報が少ないので、説明文がそれを補ってくれるようだ。鑑賞の仕方がいつもと違うので、気になった。

あなたもですよ!

石鼓

紀元前7世紀ごろに作られたというこの石。刻まれた文字の内容は、「俺はここに里を築くぞー。いやー、ここは自然豊かでいいところだなあ」という感じだ。そんな平凡な石の解説文の前には群れをなす人々。私もその一人だ。

玉胸飾り

――受け継ぐべき権威の象徴であった。

とある。作品を見ただけでは、それは分からない。表現を目的としていないからだ。絵画の場合は表現を目的としていることが多いので、説明文なしでも見れる。さっきの装飾付きの鐘の方は、「鐘は領土拡大の願いの証」だそうだ。どうして分かることができる。こうなってくると、作品自体よりも解説の方が重要になってきはしないだろうか。「何に使われ、どんな意味を持っていたか」という解説の中の物語の方が。

作った目的の違いによる、鑑賞方法の分かれ方

なぜ上のようなことが起きるかと考えれば、先程も述べた「作る目的」の違いによるものだろう。壺や土器や装身具は、表現ではなく使用が目的である。儀式や日常生活で使うことを目的としているため、意味は解説文に濃く出てくる。

『紅陶鏟(さん)足鬲』

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細部は覚えてない。こんな感じだった。正面から見ると、ふくよかな人が腰に手を当ててドヤっているのを真半分に切断したように見える。

歴史は小説として読むことにしよう!

両詔量

――これで兵士に配給する穀物を配ったとする説がある。

歴史さんは、「あっ、あれ間違ってた。ごめーん。教科書変えるねー!」ってことがある。その影響で以前までは、「(何か学ぶとしたら)これからは形式科学だけを学ぶぞー! 数学だけが意味を持っている!」とほざいていた。ただ、その「まちがってたごめーん」はとらえ方で変わってくる。小説として楽しめばいい。寓話として!

※「点で覚える! なんちゃら史」とかいう本がある。ああいうのは、ただしつけものテメーはダメだ

現代にもあるのかな

『当て具』

ばれん(版画の時にシャカシャカやるやつ)のような形をした石の道具。これで壺の内側から押さえて、外側からは叩いて締めるための物らしい。内側から押さえるための物があったなんて知らなかった。現代の陶芸とかでも、こんな感じの道具があるのだろうか。

鑑賞者に「近い」解説文

「――らしい」とか「ホームベースのような――」のように、かたっくるしくない緩めの解説なところは好き。語りかけられているようで、親しみがわく。

兵馬俑に意味があったとしても、それは伝達

初めの方に、「表現を目的としていないから作品には意味は表れてこない」みたいなことを書いた。

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兵馬俑に関しては、伝えるために作っているので意味が表れてくる。感情などの漠然としたものではなく、明確な事実が。

(2016年1月15日)

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