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体験と生活と芸術の考察ブログ

着ぐるみは、ある面で演劇の「凄み」を越えている

2014年10月18日、私はゆるキャラになった。「ぇー! かわいー!」って来るけど、中身おっさんだからな? おっさんじゃないか。

一番うれしかったのは、触られたり抱きつかれたりする事。合法で、かつ健全。すごく楽しかった。またやりたい。 

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演劇の凄みの一つは

自分ではない何者かになれる」。これは、演劇の凄みの一つだと思っている。普段絶対に言わないようなことを、台本の力を借りて言う。魅力的だ。言わば「登場人物の所為」にして、爽快な気分に浸ることができる。

究極の没個性

完全に自分ではない何者かになれる」。そこが、演劇を越えている点だと思う。100%自分を気にしなく出来る。


中からこっちに笑顔を向けてくるのが見える。自分に向けられたものではないから、中立な立場で見てた。動画を見てるような感じだった。不思議なのは、そこにいる実感がないこと。着ぐるみの目の場所を通して、向こうの人と目が合う。しかし、目の前で起きていることは、どこか他人事。

今振り返ると、それは『マルコビッチの穴』に似ている。

マルコヴィッチの穴 (字幕版)

マルコヴィッチの穴』が、終盤で急にSBR大統領戦の雰囲気を帯びて、熱くなった。
(2015年10月15日 19:06)

また、ステージに立ったときは、全然緊張しなかったのを覚えている。なんとなく「究極の没個性」という言葉が思い浮かんだ。自分ではないから緊張しない。 究極の没個性だから何でもできると思った。着ぐるみの中にいるとはっちゃけれる。楽しいですよ。

余談

「キャラクターが一貫して笑顔」なのと「内側の人が必死の形相」というギャップが何か良い。初めの10分は問題なかったが、それ以降になると汗が垂れてきた。最終的にはだらだらだった。30分ほどやった後脱ぐときにでた言葉が「死ぬー!」。これ夏だったらどうなるんだと思った。市長の挨拶から始まる紹介のラッシュが、着ぐるみの内側にボディブローだった。

普段だったら公で出来ないかわいい動きができるのも、なんかいいよね。

youtu.be

(2015年12月8日)

fromztoz.hatenablog.com

「自分」というものは無いのではないか

追記:2016年11月25日

「自分さえも着ぐるみ感が持てたらどうなるだろう」と考えた。ワクワクしてくる。

着ぐるみ感が持てるのはどんな時かと考えたら、「責任を放棄出来るとき」だと思う。着ぐるみの時は、「これは着ぐるみがやっていることで、自分の人格には一切関係のないことだ」という安心感がある。だから、生身では恥ずかしいこともできる。それの感覚を生身でも持てたとき。達成される。

いつの時かは忘れたが、「『自分』というものは無いのではないか」と考えたことがある。連続して「自分だ」と思える要素は、この人生の中で見た目や縁者、過去そのものくらいだ。この見た目は難しいだろう。でも、やっぱり可能性にワクワクする自分もいる。

二面性を持つ「自分」

追記:2018年2月13日

「自分」というものは矛盾していると思った。

「過去から現在まで、あらゆるものに影響を受けてきた。誰かの好きな物・読んだ本・言われた言葉など、生活する中で。そんなごちゃごちゃと変化の激しい中に『自分』という言葉を当てはめるのは出来ないんじゃないか。でも、今この瞬間を考えれば『自分』というものはあるんじゃないか。人の目に映る今この瞬間の姿が」

そこまで考えた時、「矛盾」ではなく「二面性」だと思った。

「そうだ、二面性があるのか。嫌いな虫や嫌いな場所、好きな食べ物、『こういう時にはなぜかこうしてしまう』という性質。それは昔からほとんど変わらないし全く変わらないところもある。それは『自分』だ。一方で、考え方や価値観はどんどん変わっていく。その変わる前の瞬間や変わった後の瞬間を取り出した時のそれも『自分』。二面性があるんだ」