感化と変化の記録

読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

3.俺14

体験と生活と芸術の考察ブログ

ゴミを拾いにゴミ拾いに行くのは勿体ない:業の間接的肯定

「折角のゴミを活かしてやろう!」という話。

抑えつけることができないならば

「Shibuya Halloween Ghostbusters」というイベントが2015年に開かれた。それは、渋谷の街に大量に落ちているゴミを、集まった人が拾うイベントだ。このイベントが開かれた理由は、渋谷で開かれるハロウィンのイベントで大量にゴミが出るのが問題だったからだ。

ある動画で西野亮廣氏は、「いじめは(いじめる側にとって)娯楽だ」と定義したうえで、上記のイベントを開いた経緯について話している。

「(前略)ゴミを出すなと言ったところで、出しちゃう。で、出しちゃうんだったら、このゴミ使ったイベントをそりゃもう遊びで作っちゃえば、2度おいしいんじゃねーかっていうことで――」

「ゴミを出す」という事実が変えられないのであれば、それを利用して楽しいことをしてやろう。そういうことだ。「2度おいしい」とは、「ゴミを出すという娯楽」と「拾いながら交流するという娯楽」、この二つが満たされるという意味だろう。私はそう解釈している。

「俺はゴミを拾いに来てるんだ!」

自分に当てはめて考えてみた。私は、大学在学中に住んでいた地域で、何度かゴミ拾いのイベントに参加したことがあった。「三島影奉仕」というイベントだ(公開設定になっているので載せた)。

私は人と話をするのが得意ではないので、「じゃあこっちから突き放したろ!」という無意識な思いがあった。それによって、ゴミ拾い中も「(俺は、ゴミ拾いに来たんだ! 仲良く交流しに来たわけじゃないぞ! なんだよ話してて、拾ってないじゃないか!)」とぷんすかすることがあったのである。

一人で拾ってろよ。

f:id:DaikiYamagishi:20160930172241j:plain

当時は自分が正しいと思っていたが、冒頭での説明を踏まえれば、「勿体ない」ということになる。確かに、話に夢中になってゴミを拾わないことがあるかもしれない。でも、究極的なことを言えば、拾っても大して変わりはしない。ゴミは出続ける。それならば、ゴミ拾いをきっかけとして楽しく会話すれば、本来生まれなかった交流が生まれる。そして、ゴミも少し減る。

「ゴミを落とすなー!」という抑圧オーラを全開で歩くよりも、「ゴミきっかけで楽しくやってまーす!」という雰囲気で歩く方が良い。2度おいしいというわけだ。もちろんごみを捨てることはダメだが、「人間、そんなこともしたくなっちゃうよな! 全くしょうがねーやつだなぁ、人間は!」ということを、楽しいゴミ拾いで体現するんだ。間接的に業を肯定するんだ。

助長に繋がる危険性

ここで、批判的な立場に立ってみよう。「コレによってごみを捨てる人が増えるのではないか」と。

しかし、「しょうがねーやつだな!」はゴミを拾う側の人が思うものだ。ごみを捨てる側の人には、精神的に何の影響も及ぼしていない。「業の肯定」を拾う側だけで広めて2度おいしくなる分には、助長に繋がらないのではないか。拾う人は捨てないだろうから。そこだけ隠せばいいんだ。

ということで、これからは「間接的業の肯定ステルス型交流メイン2度得ゴミ拾い」はどうでしょうか。