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体験と生活と芸術の考察ブログ

身上調査書に書き込んで物語を作ってみた

身上調査書

「身上調査書」というものが存在する。「性格」や「好きなもの」など、いくつかの項目を想像して書く。それを元に、物語のキャラクターを作る。

それを知ったのは、NHKの高校講座(美術)の荒木飛呂彦回を見たときだ。こうこうこうざ。しるべすたすたろーん。

高校講座 美術 「荒木飛呂彦」 (2012年) - YouTube

キャラクターの元となる身上調査書に魅力を感じたが、実際に書くことはなかった。

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初の試み。荒木飛呂彦の「身上調査書」を参考にして、書きこんでいる。表面的な情報だけでは埋められない項目もいくつかあるので、それは他の情報を元に滝登りするしかないだろう。久しぶりに時間を忘れて没頭していた。ストレスはなかった。一先ず中断。
(2016年9月25日 00:09)

それが、昨日、ふと思い立ってやってみた。

『私はどうやらいないらしい』

 信念を持つということは、本当に難しい。流されて生き方をコロッと変える人のことを嫌いながら、それはまさしく私だった。恋に生きた高校生活、夢に生きた専門学校時代。そこに私はいただろうか。いなかった。今だから分かる。

 九州のこの地に、何十年かぶりに雪が降り続いたあの3日間。「この冬が一生終わらないでほしい」。彼の隣で雪に寝そべっているときに感じたあの切望が、冬を大好きにさせたのかもしれない。職場へと向かう道中、塀から雪を落としているときにそれを思い出した。大人たちは、雪で遊ばないのだろうか。私は、雪で遊ぶために朝早く出勤した。21歳になった今も、雪が好きだ。雪に、冬に、寒さにワクワクしている。

 そのワクワクも、職場に着けばおしまいだ。今日も、上司二人の仲の良い会話を傍から眺める。この小さなグラフィックデザインの会社に入り、1年が過ぎた。経験が浅いことは分かっているが、会議で意見を求められないのは悲しい。私という人間が存在しないような感覚に陥るからだ。しかし、意見を述べたところで「私」を実感できるだろうか。出来ないような気がする。今もまだ、昔の生き方の延長でしかない気がする。

 私は、ピルクルが好きだ。高校時代の彼が好きだったから、私も好きになった。その彼とは1年で別れた。好かれていることは分かっていたけど、愛されてはいないと感じていた。「意思のない女は嫌だ」。大好きだった人にそう言われた時から、私の中の色々なことは変わっていった。「無駄なこと」が嫌いになった。好きで集めていたかわいい靴下も捨てた。

 それからは、「私」を探していた。意思のある女になろうとした。なるべくたくさんの本、なるべく沢山の映画を見た。それは仕事のために引き出しを増やす目的もあったが、一番は過去の彼のためだった。信念を持つということは、本当に難しい。(続かない)

邪悪なものは排除する:日記との違い

(追記:2017年2月1日)

とある小説の世界は、日常の世界から邪悪なものを排除した世界だ。例えば以下の実体験を小説にするとする。

あるクリスマスの日の深夜近く。数人でのささやかなホームパーティーがお開きになった。1人の女子と家の方向が同じなので、2人で帰路に就く。彼女は歩き、私は原付を押す。2kmほど歩いた頃、2人乗りをようやく提案した。彼女にヘルメットを渡す。彼女の小さな悲鳴と共に、少しよろけながらも走り出した寒空の下。彼女の両手は、私の脇腹をつかんでいる。辺りは誰もいなく、開放感を覚えた。線路下をくぐり、交差点を2つ過ぎ、500mの銀杏並木を通った。その途中で、彼女は私の背中に抱き着く格好になった。

真実を事細かに描くのならば、勃起したことも記さなければならない。しかし、物語の趣旨から外れてしまう邪魔なものであれば記す必要はない。