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体験と生活と芸術の考察ブログ

行動はきっかけを生む。それはもう、ポンポンとね

ある日、時間外の食堂に何となく向かった。階段を上りきる直前、Aさんが話しかけてきた。その人との唯一の接点であった部活動を、私はやめていた。なので、偶然会ったことになる。そこでの立ち話が、社交辞令的でなかったことを嬉しく感じた。その人と別れ、入った食堂は人が少なく、静かだ。雲からこぼれる夕日を見ながら、考え事をしていた。

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「もう一度会いたい」。そう思った。その感情を、「『話したいなー』と思ったので――」という文章に変換してメッセージ送信。後日、ただ食事をするというだけなのにとてつもない緊張をするはめになった。原始人には理解不能だろう。次は、働いているカフェに遊びに来てくれることになった。

そこでも、とてつもない緊張を強いられた。理由は、「何をしていいか分からない」からだ。狭い店内で空調の音がむなしく鳴る。そんな時もあった。(何か話したいことないかー!!)。心中必死表情真顔であった。取り繕いの鬼であった。その時は分からなかったけど、話したいことがないのは当たり前なんだよ。一緒にいたいだけなんだから。それが分かっていたならば、沈黙の怖さに怯えることもなく帰路の友に誘っただろうに。


上記の話は、全て「(自らの)行動」の結果作られていることにお気づきだろう。積極的をプラス、消極的をマイナスとするならば、プラスの行動によって。

先ず、食堂に行ったこと。これは何となくなので、偶然性が強い。プラスでもマイナスでもないかな。次に、立ち話。これはプラスだ。挨拶してから、「会話をスタートする」という行動をとらなくてはならない(私の場合、ほぼ全て逃げるような挨拶で終わらせる。他人が驚くほどに)。そして、メッセージ送信による誘い。カフェの約束。カフェでの約束ができたのは、カフェで働いていたからだ。

これらのプラスの行動、言い方を変えれば「イエス」ともいえる。先程挙げた一例の他に、「イエス」によって様々な機会が生まれ、そこから様々ものを得た。それが大体、大学の最初の2年間。後の2年間は、真逆だった。「ノー」の2年間は、恐ろしく何も起きなかった。内面は劇的に変化したので無駄ではなかったが、人との関わりは生まれなかった。当然。

行動はきっかけを生む。それはもう、ポンポンとね。

余談

食事の際、「何か話したいことあるんじゃないの?」と聞かれた。別に、その時まで無言だったわけじゃない。学校のことや、卒業後のことなどについて話していた。なので、「何か特別なことを話したくて誘った」と思われていたようだ。勘違いだ。しかし、先の質問の際にキッパリと否定はできなかった。なぜなら、「話したいから」という誘い文句に後ろめたさがあったからだ。「本心ではない」という後ろめたさだ。

「話したい」というのは、「一緒にいたい」という気持ちの派生形なので、普通にいくと後ろめたさは発生しない。しかし、当時は「一緒にいたい」という概念が自分中に無かったので、本当の気持ちでない気がしていた。「自分の中に確かに有るけど、概念が無いために見えない」という状態。それが、キッパリ否定をさせなかった。

即追記

トイレでパラジクロルベンゼン製剤の匂いを嗅ぎながら、「これは世界で1位2位を争う、遠回りな告白なんじゃないか」という気がしてきた。